棋力と将棋歴

 「永遠の一手」の連載が順調に進んでいて嬉しく思っている。この作品は、私自身にとっては特別の意味を持っている。「3年がかりの掲載」であり、「30年越しの夢」の実現にもなっているからである。このことについては、別の機会に記したい。

 松島さんの作画も力が入っていて評価も高く、大変ありがたく思っている。ただ、将棋に関して常識に合わない場面を指摘する声もチラホラ聞こえてくるようである。よく見ているなあ、と感心するほどである。その責任が松島さんにはないことを一言申し上げておいた方がいいと思って、(このブログはあまり読まれているわけではないけれども)この記事を書いている。
 今回の連載では、編集長と相談の結果、監修をつけないで進めることになった(経緯については別途記したい)。将棋関連については原作の担当であり、チェックもれは私の責任である。

 私の棋力は、一番強かった頃でアマ4段くらいで、将棋歴は50年ほどある。好きな棋士は(同年齢の)谷川浩司九段(永世名人)である。

 どうでもよいことではあるが、私自身のエピソードをいくつか記したい。

 将棋を覚えたのは小学1年生頃だったと記憶している。3年生くらいのときには、クラスメートに上山本君という将棋好きがいて、当時住んでいた家から近かった井の頭公園の屋外ホールのようなところで、よく縁台将棋をしていた。
 ある日、どういう経緯だったか忘れてしまったが、見知らぬ町の見知らぬ上級生に声をかけられた。彼は奨励会に通っていると言った(奨励会の本当の意味を知るのはずっと後のことである)。私が将棋好きだというと一局やろう、となった。彼は穴熊に囲い、私はわけのわからないまま負けてしまった。当時は大山康晴永世名人)の影響で振り飛車(特に四間飛車)全盛ではあったが、「穴熊」については見方が分かれていて、プロが指すのはいかがなものかという意見もあった時代だった(はずだ)。奨励会の彼は「穴熊が流行ってきている」ことと「結構強いね」という言葉を残して去って行った(もしかすると、その後プロ棋士になっているかもしれず、今思えば、名前ぐらいは覚えておくべきだった気がしている)。

 小学生だったか中学生だったかは忘れてしまったが、スポーツ新聞(おそらく、スポニチ)に週に一度(火曜日だったような記憶がある)、有段者になれる問題が出されていた。正解を続けていくと段位が付与される仕組みだった(今でもあるかもしれない)。往復はがきで将棋連盟に解答を提出し、採点されて戻ってくる。そこで3段の免状をもらえる権利を手にした。けれども、免状を取得するには数万円かかることがわかり、断念した。

 将棋のプロになりたいと思ったこともあったが、どうすればいいのかわからず、当時はいろいろな本を買って一人で勉強した。その中でも特に勉強になったのが、加藤治郎八段(当時)の名著「将棋は歩から(上・中・下)」である。他の本はすべてどこかにいってしまったが、この本だけは今でも大切に所有している。調べてみると、1992年に改訂版が出ている。私の持っているものは1970年刊行のもので、価格も780円となっている。

 同級生にはほとんど負けたことはなかったけれど、本格的に取り組んでいる人はやっぱり強い。大学院生の頃、すでに将棋を指すことはほとんどなかったけれど、後輩の樋口君には何度か対局してもらった。彼は高校時代に将棋部で活躍していて、アマ5段だった。良い勝負をするけれど、結局、最後は力負けした。樋口君は、現在、ある大学で数学を教えている。

 コンピュータを専門分野にするようになって、コンピュータ将棋にも興味を持った。1996年、助教授になって自分の研究室を持ったときに購入した本が松原仁先生(残念ながら面識はない)の「将棋とコンピュータ」である。結局、私自身は、将棋ソフトの研究は行わなかった。愛好家として「AI将棋」を中心に購入して遊んだ。たぶん「AI将棋2004」まで買っていた気がする。それ以降、購入しなくなったのは、もうソフトが十分強くなりすぎて、私には不要になったからである。先日、本棚を整理していたら、「AI将棋2002」が出てきた。CD-ROMをWindows 2007で起動してみたら、ちゃんと動作して驚いた。女流棋士による読み上げやAI奨励会モードなど、今でも十分に楽しめた。

 本連載の企画を進めるに当たって、監修を頼むことはなかったけれども、沢実さんから激励を頂いた。「どんどんやりなさい」と。もうこの激励だけで、私にとっては十分だった。一般には知られていないかもしれないけれど、知る人ぞ知る人物である。特にNHK杯戦においては重要な役割を担ってこられたお方である。