「序盤からボコボコにされた」というキーワード

「永遠の一手」の連載が始まってすぐに、将棋の常識としておかしいという指摘がいくつかありました。その一つに第1話の一郎のセリフがあります。

「名人には終盤でボコボコにされた。
 だけど、彗星には…
 序盤からボコボコにされたんだ…」

 将棋で「序盤からボコボコにされる」ということはないという指摘ですね。
 本当にそうでしょうか?
 私は「序盤からボコボコにされる」というのは、本編を描く上での一つのキーワードになっていると思っています。

 もう30年も前になりますが、学生時代の後輩に樋口君というアマ五段がいました。私は何回か対局してもらいましたが、一度も勝てませんでした。樋口君は名門の都立高校で将棋の強豪でならしましたが、大学では将棋を続けませんでした。
「なんで将棋、やめちゃったの?」
ときくと、
「序盤の研究の速さについて行けなくなったので…」
ということでした。
 私は意外に思いましたが、印象的な言葉でした。

 将棋の対局は序盤、中盤、終盤に分けられます。序盤は定跡ベースで進み、中盤から本格的な戦いが始まります。ですから、中盤以降の力量で棋力が決まるように思えます。
 アマチュアレベルでは確かにそうだと思います。少々序盤が下手でも、中盤以降の力量で勝負が決まることが多いと思います。ですが、実力が拮抗したトップアマやプロ棋士ではどうでしょうか。戦いが始まる前に少しでも有利であれば、勝率は高まるでしょう。
 そのため、序盤の研究は日々進んでいきました。長い間、横歩取りは先手有利といわれてきましたが、当時(30年前)、その定跡にチャレンジするプロ棋士が現れました。そして、横歩取りは必ずしも先手有利ではなくなりました。その後、横歩取り定跡が大きく変化していきます。
 ゴキゲン中飛車というのも驚きでした。それまで、振り飛車は角筋を止めて守りに重きを置いた戦法でした。ところが、ゴキゲン中飛車は角交換を恐れない攻めの振り飛車として登場しました。
 定跡を守らない新しい指し手は、数多く生まれています。もし、プロをめざすのであれば、序盤の変化をすべて頭に入れていかなければなりません。「それは無理」というのが、30年前の樋口君の偽らざる心境だったと思います。

 序盤の重要性を示した一局に、2014年に行われた第3回将棋電王戦の豊島七段(当時)の戦いがあります。大会そのものは、5人のプロ棋士が5つの将棋ソフトと対戦して、プロ棋士側が1勝4敗と敗北しました。プロ棋士があげたその1勝こそが豊島七段でした。豊島七段は、中盤の戦いを避けるように、序盤からいきなり終盤になる戦法(横歩取り)を選択しました。そして、序盤の有利をそのまま終盤に持ち込み、完勝しました。

 現在は逆になっていますね。将棋ソフトは、30年前(あるいは数年前)とは比較にならないほど、序盤を複雑にしています。トッププロが「特別に悪い手を指していない」のに負けてしまうほどです。

 本編第7話に、コンピュータ将棋がこのまま進展したら「これまでの定跡をことごとく覆してみせることもできるかもしれません」という康晴の直接的なセリフがあります。現時点で読んで頂ければ、それほど違和感はないように思いますが、いかがでしょうか。

 本編における「序盤からボコボコにされた」というセリフは、プロ棋士を圧倒した将棋ソフトを象徴した意味合いになっているものと私自身は思っています。