「エレベーター事故はなぜ再発したのか」(2013年3月21日初稿;3月26日改定稿掲載)

 2006(平成18)年6月3日、男性がエレベーターから降りようとしたところ、戸が開いたままの状態でエレベーターが上昇し、乗降口の上枠とかごの床部分の間に挟まれて亡くなるという痛ましい事故が起きた。その公判が、6年9カ月後の今年3月11日に、ようやく始まった。遺族の方々の心中は察して余りある。
 公判開始が遅れたことよりもっと問題だと思うのは、昨年10月31日に扉が開いたまま上昇して女性が挟まれて亡くなるという、同様のエレベーター事故が再発したことだ。私は教員として技術者を育てる立場にあり、防がなければならない再発事故が起きたことに、少なからぬ動揺を覚えた。事故の原因が突き止められ、対策が取られ始めたばかりの再発事故だったからである。
 平成18年の事故後、国土交通省は昇降機等事故対策委員会を設置し、平成21年9月8日に報告書をまとめた。1ページ目は、次の言葉だけが記載されている。
 「本報告書の調査の目的は、本件エレベーター事故に関し、昇降機等事故対策委員会により、再発防止の観点からの事故発生原因の解明、再発防止対策等に係る検討を行うことであり、事故の責任を問うためのものではない。」
 この言葉には、利害関係から裁判が長引くおそれがある中で、その動向にとらわれることなく、早期に原因を究明し、再発を防止しようという意志が読み取れる。しかし、事故は再び起きた。

 私は大学で技術者倫理に関する授業を補佐している。講師は外部の第一人者をお招きしている。平成18年のエレベーター事故は、すでに、技術者倫理を学ぶ上での重要な事例になっている。エレベーターは、人が乗って移動する機械としては、大変特殊である。免許を持った運転手という存在がいない。では、安全は誰が保証するのか、という大きな問題がある。
 建物が高層化し、現代社会においては、エレベーターは不可欠な存在になっている。しかしながら、私たちはエレベーターの運用について、それほどの関心を持っていない。ここで、エレベーターの安全性についての問題点を整理して示したい。

 まずは、エレベーターそのものの安全性である。最初の事故も昨年の事故も、要因は違うけれども、ブレーキに問題があったことが明らかにされている。製造者責任が強く問われる点である。
 ただ、疑問なのは事故が再発したことである。死亡事故は企業にとって大変なダメージである。経営陣にとって、再発防止は最優先課題だったはずだ。それが十分になされなかったのはどういうことなのか、私自身、まだ理解できていない。

 報道では製造者責任が大きくクローズアップされている。しかし、エレベーターという特殊な乗り物の安全性を考えるには、それだけでは不十分である。近年のエレベーターは、高度なコンピューター制御を導入している。そのため、乗り心地は格段に向上している。ただし、技術的に高度化された機器はブラックボックス化していき、不具合が起きたときには原因の究明が困難になっていく。エレベーターも同様な状況にある。このような場合に重要になってくるのは、関係者がリスク情報を共有することである。しかしエレベーター業界は、残念ながら(少なくとも最初の事故当時は)そういう体制になっていなかった。
 エレベーターの運用は、必ずしも製造会社が行うわけではない。平成18年の事故では、製造会社とは資本提携のない独立系と呼ばれる保守会社が管理していた。驚いたことに、この保守会社は、製造会社のエレベーター運用マニュアルを保有していなかった。エレベーター業界は、自社の利益を優先するあまり、製造会社と独立系保守会社との間では情報交換が極めて希薄だったのである。

 保守会社は使用者(ビルの管理者など)が選択する。平成18年の事故は、公営の高層住宅で起きており、保守会社は当該の住宅公社が決定している。もちろん、昇降機検査資格を持った技術者が定期的に点検するので、問題があるわけではない。ただし、決定のプロセスを振り返ると、反省すべき点が出てくる。
 エレベーターは平成10年から運用されているが、保守点検業務の委託先の選定は、平成14年度までは随意契約によって製造会社が行っていた。平成15年度から事故が発生した平成18年度までは指名競争入札によって決定された。その結果、保守会社は平成15年、平成16〜17年、平成18年と、毎年のように変わっている。経費削減のためとはいえ、安全意識が希薄だった感は否めない。

 起きた事故から、私たちは学ぶ必要がある。平成18年の事故報告書の最後に、「意見」として「同種の構造を持つエレベーターの安全確保」「製造者による保守点検に係る技術情報の開示」「製造者によるリスク情報等の開示」「技術力向上のための製造者と保守管理業者の協力体制の構築」などが指摘されている。これらを真摯に受け止めていれば、再発は防げたのではないのかという思いがして、残念でならない。