第2章 科学者の資質

顔の見えない科学者たち

 東日本大震災津波被害だけでも甚大であり、それだけでも歴史的な地震災害となった。そこに発生した原発事故。「安全神話」は崩壊し、世界中の関心が「フクシマ」に集まっていく。

 研究室に設置されたテレビ画面から、福島第一原発の状況が繰り返し流れてくる中、私はふと、自分が学生だった頃のことを思い出していた。
 当時、普段はおとなしくて出世などにも全く興味を示さないような、学生から見ると、何だか覇気を感じない教員がいた。事実として、2002年に、助手のまま、定年退職を迎えている。
 私のその教員に対する見方が一変したのは、1986年、伊豆大島三原山が大噴火を起こしたときだった。火山を専門にしていたその教員は、すぐさま大島に飛んで、危険を顧みることなく、噴火を続ける三原山の火口付近を撮影している。テレビにも出演し、噴火の状況を熱く語っていた記憶がある。
 これだ!
 これが科学者なんだと、学生だった私は胸を熱くした。普段は生気がないように見えても、自分の専門領域で大事件が起これば、いてもたってもいられなくなる。語弊を承知で記すならば、たとえそれが災害につながると頭ではわかっていても、心は少年のようにワクワクと躍らせてしまう。
 それが科学者のすべてでないことは当然であるが、科学者という職業人特有の一側面であることは間違いないように思われる。
 その教員の名前は大島治といい、インターネットで調べてみると、現在は、伊豆大島火山博物館で参与をされているらしい。

 ところが今回は、これほどの事態が生じている中で、第一線の研究者たちの躍動が全くといっていいほど報道されていないのである。
 私は大きな違和感を抱いた。その違和感は、日を追うごとに膨らんでいく。

日本の原爆開発計画

 同じ学生の頃、もう20年以上も前になるが、私は集英社ヤングジャンプ誌上で「栄光なき天才たち」というノンフィクションマンガの原作を書いていた。すでに理系に進学していたこともあって、科学者も多く取り上げた。

栄光なき天才たち 1 (ヤングジャンプコミックス)

栄光なき天才たち 1 (ヤングジャンプコミックス)

 原子力発電所のもととなったのは原子爆弾の研究である。原爆は第二次世界大戦末期の1945年にアメリカで開発され、日本は唯一の被爆国となった。
 しかし、当時、原爆開発を進めていたのはアメリカだけではなかった。敵対していたドイツ、そして日本においても開発研究が進められていた。
 20世紀は科学者の世紀でもあった。その中でも原子力は、間違いなく、人類史上最大の発見の一つである。しかし、第二次世界大戦という未曾有の時代と重なってしまう。第一線の科学者(物理学者)が何を考え、どう行動したのか?
 「栄光なき天才たち」において、私は3回にわたって、アメリカ(第1巻に収録)、ドイツ(第2巻に収録)、日本(第6巻に収録)の原爆開発計画を取り上げた。特に、被爆国の日本が原爆研究を行っていたことは、当時、ほとんど知られておらず、大きな関心を呼んだ。
 日本の原爆開発を取り上げることができたのは、ある資料を見つけたことが大きかった。当時の「栄光なき天才たち」にも参考文献として明記させて頂いたが、ここでもあらためて紹介したい。「昭和史の天皇」第4巻(読売新聞社編)である。取材と証言をもとに、原爆研究に携わった科学者群像が描かれていた。
昭和史の天皇〈第4〉 (1968年)

昭和史の天皇〈第4〉 (1968年)

科学者としての敗北、第一人者としての自負

 日本の原爆開発計画を担ったのは、理化学研究所仁科芳雄(1890−1951)の研究室である。陸軍の要請にしたがって、日米開戦前の昭和16年4月に始まっている。
 敗戦の年、昭和20年のはじめには、海軍でも原爆研究をスタートさせている。こちらは京都大学の荒勝文策(1890−1973)研究室に委託された。
 「理論の仁科、実験の荒勝」といわれ、ともに、日本に原子物理学を定着させたパイオニアである。

 「昭和史の天皇」第4巻に記録された第一線の科学者たちの言葉は、科学者という職業人を考える上で大変興味深いものがあった。

 まずは、仁科研究室で原爆開発の理論を担当した武谷三男(1911−2000)である。
 武谷は当時、学生時代の左翼思想が問題となり、戦前、戦中に思想統制を行っていた特高警察に捕まっていた。しかし、陸軍が手を回して、警察の監視下においても原爆研究を続けられる特権を与えられていたという複雑な状況にあった。
 以下は広島に原爆が投下された昭和20年8月6日を振り返った武谷の言葉である。

「ぼくは留置場の中でゼンソクが激しくなり、警視庁を釈放されてから、自宅で監視つきの生活をしていたが、それでも勉強はしていた。この自宅研究の一つにぼくは、もしアメリカが原爆を完成して投下した場合、どのくらいの被害になるかの計算をやってみた。これは連鎖反応の計算が出来れば、あとはいろいろな要素を加えればいいわけで、そんなにむずかしい計算でもなく、すぐおおよその見当はついた。
 さて、そんなことをしているうちに八月になり、いよいよぼくは裁判にかけられることになるので、その準備もはじめねばならなくなった。つごうのいいことに、仁科研にいた渡辺慧君(現、ハワイ大教授)のお父さん(渡辺千冬氏)が以前司法省の高官(注=浜口内閣および第二次若槻内閣の司法大臣)をしておられたので、うまい方法はないものかと、代々木大山町の渡辺君の家に相談に行ったのだ。それが八月六日の午後だった。そこへ、当時大蔵省の大臣官房企画課長だった渡辺君のお兄さん(武氏、現アジア開発銀行総裁)から広島に新型爆弾が落ちたと知らせがあった。
 聞いてみると、ぼくが予想していたのとちょうど同じくらいの被害だったので、渡辺君と二人で『とうとうアメリカは原爆を作りやがった』と確認し合ったものだった」
(「昭和史の天皇」第4巻より、原文のまま抜粋:以下も同様である)

 当時、日本においては、原爆は作ることが可能であったとしても、50〜100年は要するだろうと考えられていた。その中にあって、理論を担当していた武谷は、「もし作られたとしたら」という仮定のもとで、すでにその全貌を導き出していた。
 そこには「想定外」などという政治色の強い言葉は存在しない。たとえ、事実が理論と合わなかったとしても、すぐさま再計算を行ったことだろう。
 科学者としての「純粋な知的好奇心」と「高い分析能力」を見て取ることができる。

「その翌々日、八月八日に検事の調べが全部終わり、調書にハンコを押した。当時、検事局は巣鵬の東京拘置所疎開していたので、そこへ行ったわけだが、終わってから検事は新聞を出して
『お前が研究していたというのは、この爆弾のことか』
というので
『そうだ』と答えると、
『検事をみんな集めるから話してくれ』
という。そこでウラン爆弾とはこういうものだと解説したんだが、検事さんたちは理屈がむずかしいのかポカンとして聞いている。そこでぼくは
アメリカはまだ数発持っているかもしれん。ボヤボヤしているとまた落ちてくる。飛行機が単機でくるときは危険だから深い穴にはいっていなさい』
と注意した。すると検事さんは
『お前、もういいからさっそく、仁科研へ帰って研究を続けてくれ』
と真剣になっていうのには笑ってしまった」

「つぎの日、長崎にプルトニウム爆弾が落ちたが、そのとき玉木英彦さん(現、東大教授)と仁科研でこんな話をしたのを覚えている。
『広島と長崎の被害調査は、日本の学者しかできないんだ。そしてこの調査はとりも直さず、日本の物理学のレベルを世界中からテストされることになるんだ。われわれはそのためにも一生懸命調査をやろう』ってね」

 これらの言葉には、科学者としての義務と責務を感じる。

「それから間もなく広島へ飛んで行った仁科先生から、馬の骨や土などのサンプルが理研に届いた。それを木村一治君(現、東北大教授)のところのエレクトロメーター(電離計)にかけたら、さっと針が動いた。放射能がある証処だが、原子力をとり出そうと研究をしていたわれわれとして、これは生涯忘れられない一瞬だったなあ」

 ここには、科学者としての敗北感がある。

 もう一人、荒勝文策の言葉を紹介したい。

「広島に原爆が落ちて、ぼくのところでも現地へ行ったが、ぼくの気持ちとしては、広島に投下された爆弾が世聞では原爆だといっていたが、本当に原爆であるかどうか、一刻も早く現地で採集した試料を持って大学に帰り、学問的に確かめたかった」

 これは武谷と同様に「純粋な知的好奇心」と「科学者としての責務」の表れと見て取れる。強烈なのは、引き続いて述べられた次の一文である。

「原爆か否かがわかるのは、仁科君とぼくよりほかにいない」

 第一人者としての、圧倒的な自負と自信。

 当時と現在では、状況が違うといえば違うのかもしれない。ただし、科学者としての資質が大きく変わったようにも思えない。
 専門家としての「知的好奇心」「分析能力」「義務と責務」「自負と自信」。
 今回の大震災においても、専門領域に関係する人たちが「敗北感」に打ちのめされたことは容易に想像できる。しかし、科学者という職業人には、それを凌駕する資質があるはずである。
 圧倒的な自負と自信を持った「第一人者」は誰なのか。なかなかその存在が見えてこない。