第1章 硬直する社会

地震発生

 2011年3月11日(金)14時46分、東北地方三陸沖を震源とするマグニチュード9.0という巨大地震が発生した。「東北地方太平洋沖地震」である。国内観測史上最大で、地球規模においても1900年以降、世界第4位という大きさであった。津波被害の甚大さは周知の通りである。

 東日本全体が大きく揺れた。私の所属する千葉大学西千葉キャンパスでも震度5弱〜5強を観測した。私の研究室は比較的新しい建物の6階にあり、揺れは大きかったが、被害はほとんどなく、コンピュータのモニタが倒れて損傷する程度で済んだ。
 ただし、場所によっては大きな被害が出ていた。しばらくして、大学院の学生が研究室に飛び込んできた。彼は幕張にある高校で非常勤講師を勤めており、そこで被災した。幕張はもともと埋め立て地であり、液状化が起こっていた。
「これはマズイ!」
 そう直感した彼は、凸凹になり始めていたコンクリートの道を、自転車を飛ばして大学まで戻ってきたのである。
この大地震の特徴の一つは、余震が絶え間なく続いたことであった。幸い大学は海岸から離れており、研究室もしっかりした建物であったので、安心できた。在室していた学生には無理して帰らないように話し合い、とりあえず、断水に備えて水の確保をした。

 余震が続く中、研究室内にテレビを用意し、インターネットと合わせて状況をみていた17時過ぎ、隣接する市原市にあるコスモ石油千葉精油所のコンビナートが爆発炎上した。爆発音とともに研究室の窓ガラスはビリビリと震動し、空がオレンジ色に一変した。
 まるで、映画のワンシーンを見ているかのような錯覚さえ覚えた。

入学試験

 この日は、国立大学にとっては、少々特別な日になっていた。翌12日(土)が入学試験(後期日程)だったからである。
 通常、入試の前日は大学構内への出入りが制限される。3月11日も、教職員、学生ともに、入試業務に関係しない者は18時までに退出するように事前に指示が出されていた。
 偶然ではあるが、この年度、私は所属学科の学科長を務めていた。そのため、学科内の教職員及び学生の退出を確認して、入試本部に届ける立場にあった。
 そういう状況の中で、地震後の最大の関心事は翌日の入試であった。実施されるのか、されないのか。インターネット上にも受験生の不安な書き込みがあふれていた。
 首都圏の大学には、早々に実施の決定をホームページ上で公表したところもあった。本学はどうするのか?退出時間が迫ってきても何の指示も届かない。私たちからは指揮系統が全く見えない状況だった。
 異常事態に直面した場合、組織の大小にかかわらず、指揮系統が硬直化して機能しなくなることがある。私たちは大学本部の指示を待っていた。大学本部は文部科学省からの指示を待っていたのかもしれない。事実として、上から下まで、何も対応できないまま、時間だけを費やしていく。
やむことのない余震に液状化、交通が止まっているという情報も次々に届いてきていた。上の指示を待っていられる状況ではなくなりつつあった。
 16時40分、学科長の立場で、まずは学科構成員へ安否確認のメールを流した。
 各研究室からは、続々と安全確認の返信が届いた。

インターネットの威力

 震災で電話がほぼ不通になったのに対して、ネットワークは大きな威力を示した。電話ではほとんど連絡が取れない中、教職員間のメールは、ほぼリアルタイムでの交信が可能だった。
 後に、本学科の教職員と学生全員の無事が確認されるが、この日、たまたま旅行先の宮城県多賀城市で被災した学生がいた。彼は避難所となった博物館で16日までの6日間を過ごすことになる。
 ようやく携帯電話が使えるようになった彼は、まず仙台の友人と連絡を取って、バスの手配を依頼した。友人はインターネットでバスの予約を取り、翌17日、学生はバスに乗り込むことができている。
 戻ってきた学生から、インターネットの予約が動いていたので、手続きはスムーズだったとの報告を受けた。

決行か、中止か

 退出時間の18時になっても大学本部からの指示はなかった。精油所の爆発は17時過ぎから17時30分頃にかけて、4回にわたって起こっていた。
 私は独断で学科内にメールを配信した。

(2011/03/11 17:17), "Ito Tomoyoshi" wrote:
> 交通が止まっていますので、安全が確認されるまで
> 無理に学生を帰宅させなくてよいかと思います。

 大学本部から教職員に一報が届いたのは、18時9分だった。

(2011/03/11 18:09), wrote:
> 【至急】平成23年度個別学力検査(後期日程)入構規制への対応について
> 本日は後期日程試験前日のため、入構規制としておりましたが、
> さきほどの地震の影響を鑑みて、学生は研究室等に留まっていただいて構いません。
> (18時以降に門の外に出ると再度入構できないこともありますのでご注意ください。)
> 安全確保を優先して対応願います。
> なお、後期日程入試実施については現在のところ全学で検討中です。
> 何らかの決定・連絡があり次第、お知らせします。

 時間は費やしたが、的確な判断だと思われた。
 ただ一文、気になる文面が含まれていた。

> (18時以降に門の外に出ると再度入構できないこともありますのでご注意ください。)

 研究室には教員3名と学生数名が残っていた。
 このまま帰れなくなる可能性も高くなってきたので、食料を調達することになり、数名の学生が連れだって買い出しに出かけていくことになった。
 同僚の教員が注釈文に気付いて、心配そうな顔になった。
「彼らは入ってこられますかね?」
 こういう状況なので問題はないと思ったが、念のため、学生に私の名刺を渡しておくことにした。
 ほどなくして、守衛所から電話(内線)がかかってきた。「入構規制がかかっているので、学生は入れられない」とのことだった。
 私は、責任はこちらで取るので学生を入構させるように頼み、守衛は不機嫌そうに従った。

 戻ってきた学生の話を聞いて驚いた。守衛の人たちが学生を次々に追い出しているというのである。
「ひどかったのは、これから自転車で帰るという学生で、どこまで帰るの?ときかれて、船橋とこたえたら、守衛さんに、船橋だったら帰れるね、って送り出されていましたよ」
「そうそう、その学生は自転車の空気入れを借りていたので、お礼までしていましたね」
 船橋までは電車でも30分ほどかかる距離である。

 ここで守衛の方々を非難するのは正当ではない。彼らは大学からの依頼で、入試前日の業務をきっちりと行っていただけである。判断すべきは大学側にある。
この時点では、翌日の入試が実施されるかどうかは決まっていなかった。私は学科長として入試業務に携わっており、地震後の16時に、試験室の下見を行った。建物的には損傷はなく、入試を行っても問題ない状況だった。情報は錯綜していたが、どちらかといえば、強行される雰囲気があった。

 ただし、大学には公共施設という側面がある。
 同僚の教員が首をかしげて言った。
「ここって、広域避難所に指定されていませんでしたっけ?」
 
 その通りだった。このキャンパスは地域の避難場所になっている。一般の人たちに、入試前日という言い訳が立つはずもない。
 私はすぐに大学本部にメールを打った。

(2011/03/11 18:19), "Ito Tomoyoshi" wrote:
>> (18時以降に門の外に出ると再度入構できないこともありますのでご注意ください。)
> 大学は地域の緊急避難場所に指定されているように記憶しています。
> もしそうでしたら、上記の対応はいかがかと思います。

 ほどなくして、出入りが緩和されるようになった。大学周辺は、帰宅難民がでるような状況にはなく、それほどの混乱は生じなかった。

 残る問題は、入試が行われるのかどうかになった。
 19時10分、「実施」が通達された。

(2011/03/11 19:10), wrote:
> 【至急】平成23年度個別学力検査(後期日程)の通常実施及び追試験実施について
> 明日12日(土)の後期日程試験は、通常どおり実施することとなりましたのでお知らせします。
> また,交通機関の影響等により受験できない者については、追試験にて対応することとなりましたので併せてお知らせします。

 これは、ある程度、予想された通知だった。ホームページ上で、首都圏の主要な大学が実施を公示していたからである。
 ところが、時間が経ち、震災の情報が増えるにつれて、状況が不透明さを増していくこととなる。深夜にかけて、入試延期の公示に切り替えていく大学が増えていったからである。
 本学はどうするのか?
 連絡はない。
 不透明とはいえ、実施方針はそのままである。学科としても準備を進めなければならない。試験監督等の入試業務が割り当てられている教員でも大学に来られないケースも考えられる。その場合は、来られる教員でカバーする必要がある。

 早朝から、SOSにも似たメールが学科長宛に届き始める。

(2011/03/12 5:16), wrote:
>12日午前5時15分現在,自宅におり,自宅から中央線・総武線で大学に向かおうとしておりますが,現在,これらのJR線が不通状態で,大学へ向かえません。
>私は,採点担当(こちらが重要)でもあり,電車が復旧後に大学に向かうことでご了解を頂きたく存じます。
>おそらく,午前中には試験本部に行けると思いますので,採点には支障ないと思います。

(2011/03/12 5:58), "Ito Tomoyoshi" wrote:
>了解しました。
JR中央線は7時頃運転再開の見込みのようですね。
>気を付けておいで下さい。
>伊藤智義

 そして、6時19分、この日の大学本部からの第一報として、入試延期の連絡が届く。

(2011/03/12 6:19), wrote:
>学科長 各位
>本日の後期日程入試は延期となりました。
>この後、全教員あてにも一斉メールをいたします。

 7時7分に全教員宛にメールが配信されて、大震災に直面した「国立大学の一大事」が、一応の収束をみた。

 実はこの頃、すでにキャンパスには受験生があふれ始めていた。人生をかけていた受験生も多くいたはずである。余震の中でも、交通機関が止まっていても、何とかして来る。来られない受験生が続出することが予想された中、キャンパスにたどりつくことが合格を意味するという情報もインターネット上では流れていた。確かにそうなっていた可能性もある。

 千葉大学は、事実として、入試実施の是非を前に、指揮系統が硬直した。変更がぎりぎりになってしまったことは、受験に関係した教員の一人として、受験生に対してお詫び申し上げなければならない。

 8時ちょうどに、学科では最後になっていた教員の安否確認の連絡が届いた。

(2011/03/12 8:00), wrote:
>年休をもらって首都高を帰宅中でした.非常に怖い思いしました.
>5時間かかって家に戻りました.無事です.

 とりあえず、私自身の役目は一段落となった。

 ところがこの頃、「国家規模の一大事」が発生して、国全体が硬直化し始めていた。
 この日(12日)の午後15時30分、福島第一原子力発電所で、爆発が起きた。