まえがき

顔の見えない科学者たち

 東日本大震災は、観測史上最大規模の大地震による複合型震災として、歴史に刻まれることとなった。3つの大地震が連動する本震に、震度6を記録する余震。津波の脅威は映像として世界中に流れた。
 多くの犠牲者を出しながらも、被災地の方々が秩序を失わずに行動を続けた姿は、世界から賞賛され、日本の持つモラルの高さが再確認された。また、原発事故の現場で作業された(されている)方々には頭の下がる思いである。
 それに対して、日本政府の震災対応には、世界中に苛立ちの声があふれた。
 個人的には、もう一つ、大きなしこりが胸に残った。科学技術者の顔が一向に見えてこなかったことである。大災害を前にして社会は硬直した。そこに求められていたものは正確な情報と客観的な知見であった。その役目を担うはずの専門家、特に現役の科学技術者の顔が見えてこなかった。なぜ?

 震災発生から1ヶ月ほど経つと、それまで沈黙していた有識者、科学者たちの口からは、せきを切ったように様々な意見が並び始め、日を追うごとに情報量は増えている。起きたできごとを振り返り、解析して、次につなげる。それは大切なプロセスである。その重要性を否定するつもりはない。
 しかし、平時に戻ったあとで、「あのときはこうするべきだった」「しなかった○○は間違っていた」という論調には、しばしば閉口させられる。その発言が、科学を職業としている者からのものであれば、なおさらである。危機に直面していた本当に必要なときに、その意見が述べられなかったのは、なぜなのか?
実は有能な“エース”とでも呼べる科学技術者がやはりいて、指揮系統が硬直化して社会が混乱に陥っていたまさにそのときに、躍動するように行動していた可能性も十分考えられる。地震原発の研究分野には莫大な予算が投入されてきている。エース級の科学技術者が育っていてもおかしくはない。それは“誰”で、“そのとき、何をしていたのか?”

 私は理系の大学教員として、20年にわたって教育研究に従事してきた。勤務地の千葉県も犠牲者を出した被災地の一つである。3月11日の地震発生から、様々なできごとに直面し、日を追うごとに今回の震災は無視できないものとして蓄積されていった。この記録は残しておく必要がある。そういう思いが強くなっていった。

「想定外」という言葉の想定外

 もう一点、大変気になったのが「想定外」という言葉である。職場においても、免罪符のように使われた。「想定外」と言えば、とりあえずは許されるような空気に支配された。
 今回の地震は、本当に「想定外」だったのだろうか?
「千年に一度の規模」まで想定していたら何も進められない。そうかもしれない。しかし、次の言葉には、素直にうなずくことはできない。「観測史上、4番目の『想定を超える』大地震である」
 
 アメリ内務省傘下の地質調査所(USGS)の記録によると、観測史上に残っている世界で起こったマグニチュード9以上の巨大地震は以下の通りである。

 1960年 チリ地震 マグニチュード9.5
 1962年 アラスカ地震 マグニチュード9.2
 2004年 スマトラ島沖地震 マグニチュード9.1
 2011年 東北地方太平洋沖地震 マグニチュード9.0
 1952年 カムチャッカ地震 マグニチュード9.0
 1868年 アリカ地震 マグニチュード9.0
 1700年 カスケード沈み込み帯(アメリカ北西部)地震 マグニチュード9.0

 1900年以降に限っても、5回も起きている現象である。しかも、最大規模のチリ地震は、今回の東北地方太平洋沖地震の5〜6倍の規模を記録している。また、チリ地震は、地球の裏側で起こったにもかかわらず、日本にも津波被害をもたらし、100名を超える犠牲者を出している。
 これらの事実を、少なくとも当該の研究者が知らないわけはない。シミュレーションも含めて、研究されていないということも、まずあり得ない。
 もしも、そういう研究がなされてきていなかったのならば、それこそが「想定外」であろう。

エースを求めて

 時間が経ち、様々な実態が明らかになってくれば、整理された分析が数多く発表されることと思われる。そこに私の加わる余地はないと考えている。報道機関や放送局、様々なライターが一般向けに真実を公にしてくれるはずである。

 本書はいわゆる解説本をめざしたものではない。本書で描きたいのは、“そのとき”であり、“人”である。もう少し掘り下げていえば、“理性”である。したがって、後付の理論は最小限に抑え、震災の渦中に視点を置いた記録を残すことを目標にしたい。
 私はかつて、「栄光なき天才たち」というノンフィクション漫画の原作を書いていた。当時すでに理系の大学生であったことから、科学者も多く取り上げた。科学者とはどういう職業人なのか、それは一つのテーマでもあった。
 もし、第一線の科学技術者が震災に対峙して苦闘し、それが一般社会の目に触れにくい状況にあったとしたら、ぜひそこに光を当てていきたい。
 個人レベルの活躍は、往々にして、その後に始まる大規模な国家政策による研究・対策によって、埋もれてしまう。後から考えれば当たり前のことでも、事実として、誰も動けなかった。その中で動いた人たちがいたとしたら、それらは語り継ぐべきものである。彼らの行動は、これも後から見れば些細なことかもしれない。しかし、それらは、科学者(あるいは理性)の資質を考えた場合、貴重な記録になるはずである。

 では、本書において、中心に置くべき人物は誰なのか?
 しかし、第一人者と呼ぶにふさわしい現役の“エース”は、なかなか見出せなかった。

 ただ一つ、意外と身近なところで、興味深い事例があった。

 震災の少し前から、全く関係のない意図で、私はある教授のホームページに注目していた。4月から別の大学に異動するという噂を耳にして、その動向を確認しようとしていたのである。ただそれだけであった。
 ところが、そのホームページは、3月11日の原発事故発生と同時に一変し、原発事故関連で占められていく。
 当初、私は違和感さえ抱いていた。それは、彼が、地震の専門家でもなく、原発に精通していたわけでもなかったからだ。
 しかし、日を追うにつれ、次第に見方が変わってきた。その記述が、ある意味で“純粋に科学的に”事態を客観視しようと試みていたからである。
 しかも、社会全体が「自粛」の空気に支配され、口を開く役割を担うべき専門家の口さえも封じられているかのようなときにである。実際、パニックを招くような軽々しい発言をしないようにという指示が学会レベルでも通達されてもいた。
 そういう状況の中で、彼は自分の「興味」と「信念」にもとづいて、限られた情報から、その時点での状況を自ら計算して割り出し、おかしいと思った報道には名指しで批判も行っている。もちろん、自分自身の素性を隠すこともしていない。
 そこには、科学者としての資質を十分に感じ取ることができた。

 そのホームページは日誌として綴られていた。
「牧野淳一郎の公開用日誌」

 牧野教授は国立天文台理論部に在籍していた。個人日誌というスタイルをとっているため、第三者にはわからない略語も多いが、知的でストレートな物言いで、当該領域の関係者を中心にそれなりのアクセス数を誇っている。
 専門は天文学、及び、計算機科学であって、原発ではない。ただし、すぐれた研究者は、研究領域を超えて、ものごとの本質に迫ることができる。牧野教授の発信には、科学的な客観性があった。

誰もやらなかったから、やった

 実は、牧野教授は大学院時代の私の先輩であり、在学中の3年間、研究指導を受けた間柄にある(詳しくは、拙著「スーパーコンピューターを20万円で創る」(集英社新書)に記載させて頂いている)。ただし、その後は共同で研究することはなく、利害関係はない。今回、牧野教授の公開用日誌を取り上げることを決めたのも、純粋に題材として適していると思ったからである。

 4月はじめに、私は牧野教授と連絡を取った。以下は、そのときのメールの抜粋である。

「牧野さんの活躍の半面、震災当初から腑に落ちない点もあります。それは、巨額の研究費を費やしている地震原子力の分野にありながら、この状況で当該分野の研究者の顔が見えてこないことです。
 実は、“真のエース”というのはやっぱりいて、いまは目立たないけれど、どこかで着々と仕事を進めているような気もしています。
 いつになるかわかりませんが、そう遠くないうちに、そういう人が脚光を浴びるような文章(マンガor本)を書きたいと思っています。」

 これに対する牧野教授の返信は、大変興味深いものがあった。
 それは本文で紹介したい。

 私は、牧野教授の公開用日誌を精査してみて驚いた。正直にいえば、少なからぬショックを受けた。試算の過程があまりにシンプルだったのである。例えば、これを問題として解かせれば、ちょっと物理が得意ならば、高校生でも牧野教授の答えと同じ結果を導ける程度のものである。
 しかし、だからこそ、牧野教授の主張は高い科学性を持った。単純明快な思考過程から導かれた結果には大きな説得力がある。

 誰もやらなかったから、やった。

 私は牧野教授とともに取り組んだ最初の本格的な研究テーマを思い出した。「GRAPE」と名付けられた天文学専用のスーパーコンピュータの開発である。
 誰もやらなかったから、自分がやった。誰も教えてくれなかったから、自分で調べた。やり方を知らなかったから、自分でできることをフル活用した。そして、世界で初めてのコンピュータができあがった。
 そこには、科学者としての苦悩があり、喜びがあった。
 少なくとも、そのときの私は、純粋に科学者としての資質を持っていたような気がする。

 それから20年が経ち、キャリアは格段に上がった。教育者として数々の学生を社会に送り出した。組織のマネージメントも求められるようになった。
 では、研究者としての側面はどうか。事実として、研究成果は上がっており、当該の研究領域においての評価も高まっている。ただし、年を重ねるごとに、自分自身で手を動かす事は減っていた。
 年齢が高くなると社会の中での役割が変わってくるのは当然のことである。科学に目覚めた頃の純粋な「資質」は、時とともに薄らいでいく。それが普通であろう。しかし、牧野教授はそれを持ち続けていた。そこに、少なからぬ衝撃を受けたのである。
 牧野教授は私の先輩であるが、年齢は同じである。
 牧野教授がどういう試算を行って、原発事故に迫っていったかについては、本文で紹介したい。

 本書は、牧野教授の意見を支持する、しないを論じるものではない。牧野教授の行動(思考)を追うことで、「東日本大震災の一端」と「科学者(理性)の一側面」について、考えてみたい。
 本書の構成は、時系列に二層の構造をとっている。一つは、日々の報道に疑念を増幅させながらも日常業務に追われた一大学人(私)の目を通した震災直後から1ヶ月の社会的混乱を描く。もう一つは、世界中が注視する原発事故に関して、専門家が口を閉ざす中で、非専門家であったにもかかわらず、自らの手で一つ一つ疑問を解き明かそうとした科学者(牧野教授)の思考過程を追う。
 それは、原発事故が発生した後、公式に「レベル7」と公表されるまでの記録でもある。

# 脚注
 なお、本文では、登場人物の敬称を略している。敬称を付けたつけたとたんに、著者と同列に見えてしまう。それは大変な失礼にあたるからである。有名人ほど「呼び捨て」がふさわしい。あらかじめ、お断りしておきたい。