30年越しの夢の実現

 「永遠の一手」は、3年越しの掲載となりましたが、30年越しの夢の実現でもありました。

 私が沢さんと出会ったのは、30年以上前になります。大学入学の同期で、クラスメートでした。ここでは、同級生ということで、沢君と表記したいと思います。

 今は違うかもしれませんが、当時の東大入試は少し変わっていて、願書に第2外国語を記載します。入学後、その第2外国語をもとにクラスが編成されます。当時(昭和58年)の第2外国語は3つ、ドイツ語、フランス語、ロシア語でした。
 受験生にとっては(少なくとも私は)、合格できる保証もなく、(私は)外国語に興味もなかったので、軽い気持ちでロシア語を選択しました。当時は米ソ冷戦時代で、英語は勉強するのだから、第2外国語はもう一方の大国を選んでおくかな、という感じでした。
 合格して驚いたのは、ふつうの感覚ではドイツ語かフランス語を選ぶものだという事実でした。入学した理科2類の新入生は500人ほどだったと思います。ドイツ語クラスとフランス語クラスは、50人ほどで1クラスが編成されていました。両方合わせて12クラスありました。それに対して、ロシア語クラスは1つしかありませんでした。しかも11人だけでした。理科2類13組11人 - その中に沢君と私がいました。

 私が最初にヤングジャンプ青年漫画大賞原作部門で賞をもらったのは大学2年生のときでした。「コマの思い出」という作品です。それを聞いた沢君は原作を読ませてほしいと言ってくれました。私は喜んで貸しました。
http://www.te.chiba-u.jp/~brains/itot/work/singles/koma/koma.htm

 沢君は大変感激してくれました。原作の中に、雪絵という小学5年生の女の子の家に借金取りの男が無理やり入ろうとする場面があります。雪絵は「ダメーッ!!開けちゃダメーッ!!」と叫びます。その場面について、沢君が「イヤーッ!!」じゃなくて「ダメーッ!!」というところがいい、と熱く語ってくれたことを覚えています。

 東大では3年生から専門の学科に分かれます。沢君と私は違う学科に進みましたので、3年生以降は疎遠になっていきました。通うキャンパスも、沢君が本郷で、私は駒場だったので、会うこともほとんどなくなりました。

 ただ、年賀状のやり取り程度は続いていました。沢君が秋田書店に就職が決まったとき、漫画の仕事を選んだのは「あの原作を読んだから」と言ってくれました。多分にリップサービスが含まれているとは思いますが、嬉しかったですね。文字通りに受け取れば、私の作品に対するファンの第1号は沢君ということになります(高飛車な物言いで、すみません)。

 それからの年賀状のやり取りには「いつか一緒に仕事したいですね」というような文言が含まれるようになりました。
 ただ、沢君が漫画編集者として着実に実績を上げていく一方、私の方が漫画から距離を置くようになりましたので、実現は難しい状況になっていきました。沢君が少年誌の担当で、私の作風が青年誌向けだったという違いも微妙に影響していたと思います。

 「永遠の一手」の原案を抱えていたとき、ちょっとした身体の不調も抱えていました。50歳を超えて、やりたいことはそれなりにやってきたつもりですが、それでもやり残していることはあります。「いつまでも元気ではいられないんだな」という実感が募る中で、やりたいことがあるのなら、できる限りやっていこうと考えるようになりました。
 その一つが沢君と漫画の仕事をすることでした。そして私は沢君に「永遠の一手」の原案を送りました。

 その2ヶ月後にちょっとした手術を受けて、身体の不調は解消されました。
 それから2年間、沢君と一緒に仕事ができました。大変楽しく、充実した仕事になりました。

 「永遠の一手」は、私の中では、30年越しの夢を実現した記念の一作となりました。