「インターネットの進展が人間の知的能力を劣化させる可能性」(2012年7月29日初稿;8月2日改定稿掲載)

 ある講演会で、著名な科学者が「好奇心」について、次のように語っている。
 「いまの世の中は、情報化時代というのだそうですけれど、非常に情報量が多い。われわれは、とにかくこの情報の波に巻き込まれてしまう。実際、私の専門の物理学においても、研究の発表が昔と比較すると非常に多くなっています。そういう意味で、私などはときどき、metal curiosity(好奇心)を満たす前にうんざりしてしまう。つまり、知的な渇きというものが、本当に味わえないような世の中になっているような感じがします」

 前回の論考で、ブッシュという科学者が、70年も昔に「人類の知識の総量は驚くべき割合で増えている」ことを認識し、「このままでは、いつか自分たちが生み出した情報の洪水の中で溺れてしまう」ことを危惧して、Memexというシステムを提案したことを述べた。それはインターネットとして現実のものとなり、社会活動を支える重要なツールとして、爆発的な進展を遂げている。
 しかし、あまりにも急速な変化は弊害も生み出している。匿名のひぼう中傷やインターネット犯罪、システム障害による世界的な影響など、大小含めると、毎日のようにニュースになっている。人間の精神活動に対しては、インターネット依存症が、これからますます深刻になっていくものと思われる。

 ここでは、本質的な問題として、インターネットの進展が、当初の目標を通り越し、逆に、人類の知的活動に負の影響を及ぼしているのではないか、という点について言及してみたい。私たちは、溺れることなく情報の海の中を上手に泳ぐ技術は会得したけれども、逆に、立ち止まって自分の頭で考えることをしなくなった(できなくなってしまった)のではないか、ということである。
 それを強く意識させられたのが東日本大震災である。情報は錯そうし、欲する情報が容易に入手できなかった。そのとき、私たちはどういう行動を取っただろうか。
 私の職場は大学である。管轄の文部科学省からの通達は、いくつかの部署を経ているにもかかわらず、驚くほど速く下達され、末端の教員に届く。それは、各部署においては自分の判断を入れないからである。ところが、大地震後の様々な対応については、その場の担当者が一向に判断できない場面が多く生じた。周りの状況がわからず、何が正解かわからなかったからである。言葉をかえれば、自分自身で答えを導き出すことが困難だったからである。
 情報社会の中で、私たちは居ながらにして正解を「知る」ことができる。それに慣れてしまうと、自分で「考える」ことをしなくなる。自分でやっても正しいかどうかわからず、時間もかかる。第一、面倒だ。ただし、その結果、いざというときに思考が停止してしまう。

 もう一つの情報過多の弊害は、実体験を遮蔽してしまうことである。日々あふれる情報に接していると、現実に起こったできごとが、急速に古ぼけていく。東日本大震災が発生した頃、私たちはどう感じていたか?「何年かかっても」「日本は必ず復興する」そういう言葉があふれていた。ところが今はどうだろうか。被害のなかった人たちは、すでに従前の生活を取り戻しており、従前の心持ちに帰っているのではないだろうか。わずか一年前のできごと、それも歴史上最大規模の災害であるにもかかわらず、どこか遠くに感じ始めたりしてはいないだろうか。
 それを象徴しているのが、大飯原発再稼働である。主導した閣僚に枝野経産大臣と細野原発担当大臣が含まれていた。2人が震災当時、福島第一原発事故の対応に深く関わったのは周知の通りである。2人は原発政策、安全管理システムの不備をつぶさに見てきた。その同じ人物がした判断に、正直なところ、驚いた。繰り返しになるが、わずか一年前の大惨事である。この問題を情報社会に帰するのは乱暴かもしれないが、情報過多によって実体験の感覚が喪失していったことはなかっただろうか。本人が意識するしないにかかわらず、「個人の思考」が「周りの情報」に左右されてしまう一例のようにも見て取れる。

 冒頭で紹介した講演会の演者がどなたかおわかりだろうか。ノーベル物理学賞受賞者の朝永振一郎(1906-1979)である(「科学者の自由な楽園」岩波文庫より)。講演日は1972年、今から40年も前のことである。朝永の言葉は、今日においても色あせていない。一流の科学者の先見性には驚くばかりである。
 現在の情報社会は、40年前とは比較にならない。現在の携帯端末の記憶容量は、当時の大型コンピューターの100万倍以上である。検索機能は生活全般に広がり、例えば、地図が読めなくても、携帯が音声で誘導してくれる。
 こういう環境の中で知的好奇心を満たすことは、さらに困難になっている。私たちは、パソコンや携帯端末に向かっていると、何だか知的な作業をしている気になる。しかし、それは必ずしも正しくない。朝永先生はそのことを次のように諭している。
 「非常に情報過多の世界の中で、彼らは情報を得るのにたいへん熱心だということです。そこまではいいのですが、それでもうお腹が一杯になってしまって、本当に自分の知的な要求がどこにあるのか、わからなくなってしまう傾向がある」

 2010年末に文部科学省に提出されたデジタル教育についての提言http://www.ipsj.or.jp/03somu/teigen/digital_demand.html
がある。教育の現場でコンピュータを活用する際には、「自分の手で作業をし、自ら考えること」を「縮減しない」ように注意喚起している。まさにそういう注意が必要な時代になっている。
 コンピューターでつながれたバーチャルな世界が拡大するにつれて、相対的にリアルな現実が小さくなってきている。ただし、知的で心豊かな生活を送るためには、月並みな言い方だが、リアルな現実にどれだけ真摯に向き合えるかが、大切になってきている。