「プロメテウスの罠」 − 追記

 私は筆が遅い。
 昨夜も、コメントを書き始めたのは11時だったが、あれだけの文章を書きあげるの数時間を要し、アップしたのは午前4時に近かった。どうも頭の中の思考をそのまま文章に転写するのは難しい…。

 深夜のもうろうとする頭の中で、肝心なことがぼやけてしまった気がする。
 一番コメントしたかったことは、SPEEDIのやり取りで混乱していた中でも、放射線図が書けたはずだという事実である。そのことを、3月14日に、牧野さんと朝日の高橋さんが指摘している。
 牧野さんは、自身の物理的素養をフルに動員して、独力で事故の全容を明らかにしていく。その姿勢は「理性の資質」で記述した通りである。
 一方、物理学を専門としていない高橋さんに、牧野さんと同じ役目を求めることはできない。ただし、高橋さんは朝日新聞という大看板を背にしている。朝日新聞がこの提言に注目すれば、独自に専門家を招集して、放射線の流れについて見解を出せたはずである。影響力の大きさから、公的な情報の流れも速やかに変化した可能性が高い。それは、当時期待されていた理想的なジャーナリズム像に近い。
 なぜそれは実行されなかったのか。判断できなかったのか、自粛したのか、規制されたのか。それは大変興味深いことであるが、残念ながら、「プロメテウスの罠」に記述はなかった。

 最後に、手前味噌で恐縮であるが、「理性の資質」を書いておいて良かったと思ったのも事実である。
 「理性の資質」は、はじめに知り合いの出版社に書籍化を打診している。「書籍化は難しい」との返信を受け、ブログ上にアップすることを決めた。
 出版社からの回答は次のようなものである。
原発・震災関連の書籍が既にあふれている中でどんなに急いでも11月か12月の発売です。内容は素晴らしいですし、面白いのですが、時期的にずれていることは否めません。読者は、既にいろいろな情報を得て、この原稿のさらに先を知りたいと思っています。つまり、計算すると放射能汚染は何年続き、除染にどのくらいかかるかといったことでしょうか」
 残念だったけれど、商業誌の判断としては、しょうがないのかな、という思いだった。
 ただし、書籍(情報)があふれてくればくるほど、原点となる記録の重要性は増すはず、という思いは強かった。震災直後の限られた情報のみを用いて書かれた文章は拙いかもしれない。私の文章力の限界もある。しかし、「そのとき」に感じた臨場感の一片は記録に残せたのではないかと思っている。
 これからもいろいろな事実が明らかにされてくるはずである。それらが、「当時」において、どういう意味を持っていたんだろう、そういう素朴な感覚を持ったときに、拙著もお役に立てるのではないかと思っている。