「秋入学への全面移行に反対する(2012年01月27日)」の初稿

秋入学の議論は教育上の本質となり得ているか? (2012年1月22日脱稿)

 東大が秋入学へ全面移行しようとしているニュースが各報道機関でいっせいに流れた。東大が4月入学をやめて秋入学にすることは、東大の問題であるので口をはさむつもりはない。ただ、なぜ他大学をも巻き込もうとするのか、なぜ報道機関がこれほど大きく取り上げるのかが理解できない。日本の大学における東大の影響力は相当大きいらしく、大学教育の本質とはとても思えない議論に各大学は追従しようとしている。秋入学にすれば、何か劇的に変化すると、本当に思っているのだろうか?現場の教員を無意味に消耗させる検討が各大学で始まるのかと思うと、現場の一教員として、憤りを感じている。

 秋入学のメリットは、国際標準に合わせることで学生の交流が増して、国際競争力が高まることだという。もっともな論調にも聞こえる。だが、入学時期を諸外国に合わせただけで、状況が一変することなどとても想像できないことは、少し考えてみればわかる。
 留学生の受け入れ数は、実は大きく増えている。文部科学省の統計(http://www.mext.go.jp/component/a_menu/education/detail/__icsFiles/afieldfile/2010/01/13/1288626_2.pdf#search='留学生数 推移')によると9割がアジア地域からで、国別では中国からの留学生が圧倒的に多く、50パーセントを超えている。中国は国際標準の秋入学を採用している国である。私も中国からの留学生を受け持った経験があるし、現在でも指導している。はじめは、たどたどしい日本語のコミュニケーションから始まる。「日本語が難しいなら、英語でもいいよ」というと、「英語はもっとできません」とこたえる。それが現在のスタンダードである。考えてみれば当然で、英語も同時にマスターしたければ、英語圏の大学をめざすはずである。日本で学ぶ留学生には、日本語学校を経由して大学に入ってくるものも多い。入学時期の問題とは関係ない。
 実際、大学院では秋入学を導入(春入学と併用)しているところが多くなっている。けれでも、報道されているようなメリットが顕著に現れている大学を私は知らない。
 端的な実例がある。教員仲間に海外研修の助成に採択されて、一年間、ドイツに留学した人がいる。彼はその経験から、どうせ行くなら、英語圏の国にした方が良かったと口にする。ドイツ語は少しわかるようになったが、英語のコミュニケーションには役立たなかった、とのことである。
 ドイツ語でさえ、そうなのだから、日本語の国に来ようという人は、何か別の理由、言葉の壁を越えたものがあるはずである。実際、国際交流は英語のコミュニケーション能力だけで決まるわけではない。私は英語が苦手であるが、理系の研究分野では一般に世界の研究者に成果を発信しなければならないので、論文は英語で書くことが多い。お恥ずかしい話ではあるが、本当に英語力が低いので、編集者や査読者から「Your English is poor」と指摘されることもしばしばある。しかし、だからといって、論文が不採択になるかといえば、そうとも限らない。内容が良ければ採択される。そういう論文が、掲載後、その専門誌の月間ダウンロードランキング1位になったこともある。
 つまりは内容である。どれだけ優れた研究を行っているか、どれだけ魅力的な教育を行っているか。そういう根幹には目をつぶって、グローバルスタンダードに合わせることにどれだけの意味があるのだろう。
 また、日本の学生が海外に出なくなったという最近の論評についても触れておきたい。1月4日の下條さんの論説でも紹介されていたが、日本の学生の海外留学数は、実は減っていない。アメリカに行かなくなっただけである。このことは、平成22年度文部科学白書(http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/hpab201001/detail/1312553.htm)からも見てとれる。横ばいから減少傾向にあるが、それでも1990年頃に比べれば、3倍以上の数である。今回の報道は、グローバルと口にしながら、その視線は(明治の頃から変わらずに)欧米を向いていて、現状を見据えていないようで、大変残念である。

 世界215カ国の中で、4月入学はわずかに7カ国しかないそうだ。それを良くないと捉えることは、若者を教育する大学の考え方として、いかがなものかと思う。わずか7カ国という圧倒的なユニーク性を活かすという考え方はできないだろうか。例えば、些細なことなのかもしれないが、個人的には、日本に来る留学生には、もっとも日本らしい桜の季節に入学式を行い、桜舞い散る中で卒業(修了)してもらいたいと思っている。それも一つの国際交流、異文化交流なのではないかと思うのである。