「外村彰さんが示した日本企業の研究力」(2012年5月8日初稿;14日改定稿掲載)

 日本の企業研究所の巨星の一人、外村彰博士(日立製作所フェロー)が先日他界した。ホログラフィー研究の先駆者の一人である。私自身もホログラフィーを研究しており、面識があるわけではないが、先達の功績を紹介し、追悼したい(以下では、敬称を略す。ご容赦頂きたい)。
外村の業績は電子線ホログラフィーを実用化したことである。その新たな道具を使い、ミクロな量子力学的現象を明らかにした。外村は、1986年、当時、存否が物理学上の論争になっていたアハラノフ・ボーム(AB)効果を実証し、一躍ノーベル賞候補に躍り出た。

 今日、ホログラフィーといえば、立体写真の代名詞になっている。アミューズメントパークなどで、見事に浮き出た立体写真を見ることができる。メガネなどの特殊な装置を必要とせず、3次元情報をそのまま記録・再生できる技術であり、究極の立体映像技術といわれる。
 しかしホログラフィーは、もともと3次元映像のためではなく、電子顕微鏡の精度を上げる目的で発明されたものだった。
 顕微鏡が発明されたのは16世紀である。微小な世界は人類に新たな視点を与え、より小さな世界へと改良が加えられていった。ところが、どう改良しても、0.2ミクロン(1000万分の2メートル)以下のものは見えてこなかった。19世紀になって、(光の)波長よりも小さいものは見えないことが理論的に示された。
 20世紀になって量子力学が誕生し、状況が一変する。1923年、電子が光と同じように波として振る舞うことが明らかにされたからである。電子の波長は1オングストローム(100億分の1メートル)なので、電子を利用すれば、原子さえも見えるはずである。10年後の1933年には最初の電子顕微鏡が作られた。それまで誰も見たことのないウィルスなどが姿を現し、その威力に人々は驚嘆した。
 しかし、限界は早々に訪れた。電子顕微鏡では、通常のレンズと同じような作用をする電子レンズを用いる。ただし、電子レンズには凸レンズしかなく、凹レンズは存在しない。レンズにはボケや歪みなどが生じる収差がつきもので、これを取り除く必要がある。光学系では、凸レンズと凹レンズを巧みに組み合わせて取り除いている。カメラのレンズが、素人から見ると、必要以上に複雑なのはそのためである。ところが、この手法が電子顕微鏡では使えない。
 様々な取り組みが発表される中で、群を抜いてユニークだったのがデニス・ガボール(1900-1979:1971年ノーベル物理学賞)の考案したホログラフィーであった。ものを見るということは、物理的には、ものから発せられる散乱光をとらえて、レンズ系で結像させることである。目がレンズの役割をしていることはご承知の通りである。ホログラフィーでは、この過程を2段階に分ける。最初に電子線の散乱波を収差も含めてフィルムに記録する。次に、これに光をあてて、結像させる。光学手法に持ち込めば、凹レンズが使え、収差を消すことが可能になる。
 見事な解決法であった。ところが、ホログラフィーでは、波面がきれいにそろった電子線や光が必要であり、当時の技術では実用に至らず、忘れ去られる。
 それが、1960年、レーザーの発明とともに、爆発的な進展を遂げる。レーザーは、波面のそろった光線を発する技術である。
 この頃から、日本でもホログラフィーの研究が始まる。研究者自らの手で編纂された「日本のホログラフィーの発展」には、黎明期の研究紹介の中に次の記述がある。「1968年には、国内でもかなりのホログラフィー研究が行われるようになった…(中略)…この中で、特に注目されるのが外村らの電子線ホログラフィーの研究である」
 そして、1970年代後半に「ガボールが提案した方法による電子顕微鏡の収差補正に成功し」、ホログラフィーの当初の目的が世界で初めて外村によって実現されたことが明記されている。

 外村は、AB効果の実証を続けていた1985年、「電子線ホログラフィー」(オーム社)という啓蒙書を出版している。そのあとがきで、次のように述べている。

 「原理を考案したガボール、電子線の干渉計を開発したメレンシュテット、レーザー・ホログラフィーの立体映像で人を驚かせたリースとウパトニクス、電子線ホログラフィーの実現を夢見てポイント・フィラメントを開発した日比忠俊、そして電界放射型電子銃の実用化を果たしたクリュー、これらのうちの一人でも欠けたら、電子線ホログラフィーは日の目を見なかったに違いあるまい」「つくづく歴史は人であると思う」
 まさにその通りであると思う。
 ちなみに、上述の日比忠俊(1909−1994)のもとで大学院時代に電子顕微鏡の研究を始めた一人に飯島澄男がいる。10年余りの留学を経て帰国した後、研究環境を提供したのはNEC基礎研究所であった。48歳で企業に就職した飯島は、4年後の1991年、カーボンナノチューブを発見し、ノーベル賞候補に躍り出ることになる。

 かつて、日本は模倣ばかりしていると揶揄された時代があった。しかし、科学史が進むにつれて、最先端の研究も数多くなされていたことが明らかになってきている。2000年以降に日本のノーベル賞受賞者が増えていることは、その証の一つである。
 外村彰は、日本の、特に企業における研究力を世界に示した一人であった。