「災害科学の祖・寺田寅彦からの宿題 (2011/09/21)」の初稿

自然災害に対峙する寺田物理学 (2011年9月13日脱稿)

 「天災は忘れた頃にやってくる」まさにその言葉を地でいくように、今年はかつてない自然災害に見舞われている。3月11日の大地震に端を発する東日本大震災、節電が叫ばれる中での記録的な猛暑、そして平成に入って最悪の風水害をもたらした台風12号と続いている。
 台風12号が西日本に上陸したとき、私は学生とともに山中湖でゼミ合宿を行っていた。台風は東日本でも豪雨をもたらし、山名湖でも1時間に69ミリという観測史上最多の雨量を記録した。道路は寸断され、電車のダイヤも大幅に乱れた。一時は陸の孤島状態になる危うさを体験した。
 台風関連のニュースを注視する中で、目を引くものがあった。国土交通省北陸地方整備局が提供していた土砂流のシミュレーション(http://www.fnn-news.com/news/headlines/articles/CONN00207075.html)である。豪雨に見舞われた紀伊半島では土砂崩れによって川の水がせき止められた天然ダムが生じ、決壊の危険性があった。実際には起こらなかったが、ダムが決壊すると、またたく間に町を飲み込んでいく様子が、コンピュータグラフィックスでリアルに表現されていた。
 土砂流のシミュレーションでは、液体(水)と固体(土砂)が入り混じる上、複雑な地形を考慮しなくてはならず、かなり難しい数値計算が必要になる。このような複雑系科学の父と呼ばれるのが、冒頭の言葉で警鐘を鳴らした寺田寅彦である。寺田は、夏目漱石の最も信頼していた弟子であり、寺田自身も文学史上に不朽の名を残しているが、本職の物理学においては、それにもまして重要な人物である。

 日本の物理学には、仁科芳雄を源とする原子物理と、寺田寅彦を源とする複雑系物理の大きな流れがある。両者は昭和初期に同じ理化学研究所で研究室を構えていたが、研究スタイルは全く対照的であった。
 仁科は、20世紀物理学の本流である原子核物理をヨーロッパから持ち帰り、全力で欧米と対抗した。仁科自身は東大(電気工学科)の出身であったが、物理学革命の熱気は特別講演等を通して京大に伝わり、湯川秀樹朝永振一郎に受け継がれ、「京大物理学」として結実する。1949年の湯川、1965年の朝永をはじめ、2008年の南部陽一郎小林誠益川敏英まで、その系譜からノーベル物理学賞受賞者が多数輩出している。
 一方、東大物理学科を首席で卒業して教授となった寺田は、学生から絶大な人気を得ていた。ただし、寺田は欧米を追いかけようとはしなった。地震や地球の研究を基盤に、身近にある不思議に目を向けた。寺田の自然観は次第に多様性を増していき、生物を含めた全自然現象に物理学の方法を及ぼそうとした。研究テーマも、「線香花火の研究」「墨流しの研究」「割れ目の研究」など、奔放の度を加えていった。後には「東大の物理学が地球物理学にかたより、京大に遅れをとってノーベル賞が出ないのは、寺田の文人趣味のせいだ」という批判も生み出した。しかし、世界初の人工雪に成功した中谷宇吉郎をはじめとして、「寺田物理学」は脈々と受け継がれ、21世紀の複雑系科学へと昇華することになる。

 冒頭の言葉にもある通り、寺田物理学は災害科学の一翼を担う立場にもある。20世紀に物理学を飛躍的に発展させた原子物理が、同時に原爆を開発し、渦中の原子力発電所を作った。100年の時を経て、物理は多様な現象に対応できるようになってきている。21世紀の物理学が20世紀の物理学の欠点を是正してくれることを期待したい。

 偶然ではあるが、複雑系科学の国際シンポジウムの一環として、12月3日(土)に「身の回りの科学から震災まで: 寺田寅彦とサイエンスの今」(http://www.y2003.phys.waseda.ac.jp/ISCS2011/?page_id=180)と題する一般向けの市民講演会が催される。今年の2月に私にも講演依頼が届いた。その1カ月後に大震災が起こり、寺田寅彦の市民講演会は一段と意義深いものになった。講演者の一人として、身の引き締まる思いがしている。

 寺田寅彦昭和10年、57歳でこの世を去っている。日本が、日中戦争第二次世界大戦に突入しようとしていた時代である。寺田寅彦は世相を憂いて、他界する直前に、次の言葉を中央公論昭和10年4月号)に残している。
 「具体的にいうことができないのは遺憾であるが、自分の知っている多数の実例において、科学者の目から見れば実に話にもならぬほど明白なことがらが、最高級な為政者にどうしても通ぜずわからないために国家が非常な損をし、また危険を冒していると思われるふしが、決して少なくないのである。中にはよくよく考えてみると、国家国民の将来のために、実に心配で枕を高くして眠られないようなことさえあるのである」

 この文章は、今日においても色あせていない。ただし、科学者が当時ほどの見識を持っているかどうかは心もとない。大震災に際して、当初、口を開くべき科学者たちが、自粛という名目のもとで口を閉ざした。そのことに少なからぬ衝撃を感じたのは私だけではないはずである。寺田寅彦ならば、どんな行動を取っただろう。自戒も込めて、社会に対する科学者の責任を考えてみる必要がある。