「アップルに始まりアップルに戻った36年:コンピューター史の中のジョブズ 2011年10月12日」の初稿

パソコンの時代:アップルに始まりアップルに戻った36年 (2011年10月8日脱稿)

 アップル社は、時価総額で、昨年、揺るがない地位にあったマイクロソフト社を抜いてIT業界のトップに立ち、今年の8月には全米企業の頂点に立った。その同じ8月に、創業者のスティーブ・ジョブズは、CEOを自ら辞し、先日、他界した。本稿では、コンピュータ史における功績を記してみたい。

 1976年、ジョブズは20歳のとき、5歳年上の友人スティーブ・ウォズニアックと、自宅で世界初のパソコンAppleⅠを作り上げた。

 コンピュータは1940年代に誕生し、1950年代から商用化された。いち早く市場を支配したのはIBMで、「コンピュータの巨人」と称された。1970〜80年代においては、真正面から対抗できたのは日本の企業だけであった。
 日本の特徴は、参入した企業が巨大電機メーカーであったことと、国(通産省)が強力なリーダーシップを取ったことである。富士通、日立、NEC東芝三菱電機沖電気の6社が国策に乗り、富士通、日立、NECの3社がIBMの対抗馬へと成長した。巨大電機メーカーは、たとえコンピュータで赤字を出しても他の部門で補える体力があった。
 一方、アメリカのコンピュータ業界は、個人の才覚に任されていた。多くのベンチャー企業が生まれては消えていく中で、アイデアと技術で新しいコンピュータ市場を開拓していった人たちも登場した。
 当時のコンピュータはメインフレーム(大型計算機)と呼ばれ、価格は数百万ドルで専用の建物を必要とした。まず対抗したのが、DEC社である。システムを洗練し、性能は劣るが価格が1桁安い「ミニコンピュータ」の市場を開拓した。逆に、CDC社は、価格は1桁高くなるが性能はそれ以上になる「スーパーコンピュータ」の市場を拓いた。さらには、多くの研究者が関わって「ワークステーション」が開発された。
 1980年代、コンピュータは5つの市場を形成していた。価格順(同時に性能順を意味する)に並べれば、「スパコン」「メインフレーム」「ミニコン」「ワークステーション」「パソコン」である。
 中でも、パソコンの登場は、コンピュータ史上に特別な意味を持った。それまで一部の限定された人々しか接することのできなかったコンピュータが、誰でも利用できるものへと変貌したからである。1977年、二人のスティーブは投資家を引き入れてアップル社を設立し、AppleⅠを進化させたAppleⅡを市場に出した。価格は実に1,350ドル、重さはわずか5.4キロ、まさしく「パーソナル」なコンピュータの登場だった。悲観的な技術者ウォズニアックの「1,000台も売れはしない」という予想に対して、企業家ジョブズはこのときすでに「それぞれの家庭に1台ずつコンピュータが入り込む」ことを夢見ていたといわれる。

 AppleⅡは売れに売れ、ジョブズは20代にしてフォーチュン誌の資産家ランキングに名を連ねるほどにまで上りつめた。しかし、ジョブズの人生は、ここからさらに波乱万丈になってくる。
 1982年にIBMがパソコン市場に参入すると、状況が一変する。アップルはシェアを落とし、その責任をジョブズに重ねた。結果として、1985年、自分が興した会社から、10年もたたないうちに、追い出されてしまう。

 私事で恐縮であるが、15年ほど前、大学で計算機を教えるようになり、「ブレインズ」というノンフィクションマンガを集英社ビジネスジャンプで連載したことがある。コンピュータ史を黎明期から今日に至るまで描くという壮大な構想のもとに始まったが、当時の編集長の「一般受けしない」という鶴の一声で、2巻が出版されたところで休載となってしまった。
 このとき一度、ジョブズについても調べている。参考文献「コンピュータの英雄たち」(ロバート・スレイター著 馬上康成・木元俊弘訳 朝日新聞社)に、アップル社を追いだされたジョブズに対して、印象的な記述があった。「確かなのは、1970年代半ばにガレージから身を起してコンピュータ革命をもたらしたあの少年、スティーブ・ジョブズがまだ舞台から消えてはいない、ということだ。彼はまだ弱冠32歳(1987年現在)なのである」

 1997年、ジョブズはアップル社に復帰した。iMaciPodiPadiPhoneと次々にヒット商品を飛ばし、赤字続きだったアップル社に莫大な利益をもたらしていくことになるのは、周知の通りである。

 しかし、当初は、復帰のニュースを聞いても特に関心を引かなかった。Macintoshのシェアが小さくなっていたことと、コンピュータ業界がハードウェアからソフトウェアに移っていたからである。

 IBMがパソコン市場に参入したとき、大きな過ちを犯したと論じられることがある。開発の最重要部であるCPU(中央処理演算装置)をインテル社に、OS(基本ソフト)をマイクロソフト社に外注したからである。
 そのことでいち早く市場に参入することが可能になったIBMは、パソコンにおいてもシェアを奪うことに成功するが、コンピュータの主役をマイクロソフトに譲り渡すという代償を負うことになる。「巨人IBM」から「マイクロソフト帝国」へ。コンピュータ史の大きな転換点であった。

 マイクロソフトの座を脅かす企業が現れることなど、10年前には予想もできなかったことである。それを実現したのが、パソコンを初めて世に送り出したアップルであり、その中心にいたのが、一度はアップルを追われたジョブズであったことは、コンピュータ史において、特筆すべきドラマとして語り継がれていくはずである。

 ジョブズの有名なスピーチに「スタンフォード大学卒業祝賀スピーチ(2005年6月12日)」がある。私の所属している学科では、「技術者倫理」という授業で担当教員がその日本語訳(翻訳 市村佐登美)を毎年、学生に配布している。「Stay hungry, Stay foolish」という言葉はよく引用されるが、スピーチ全体を通しても興味深く、含蓄があることを、付記しておきたい。

「IT社会を築いたもう1人の巨人デニス・リッチーを悼む 2011年10月21日」の初稿

現代のIT社会を築いたデニス・リッチーC言語 (2011年10月15日脱稿)

 コンピューターは何でできている?
 演算をするプロセッサに、メモリやハードディスクの記憶装置、キーボードやマウス、それにディスプレイ、それから…。
 それは答えの半分でしかない。それらはみんなハードウェアだからである。コンピューターは、残りの半分、ソフトウェアがなければ、ただのガラクタにすぎない。
 ソフトウェアの中でも、もっとも重要なものがオペレーティング・システム(OS:基本ソフト)である。OSがなければ、現在のコンピューターは動作しない。
 OSはC言語によって飛躍的な進化を遂げた。そのC言語の生みの親であるデニス・リッチーが他界した。コンピューター史におけるC言語の意義を紹介することで、追悼したい。

 コンピューターは「0」と「1」の二つの記号だけで動いており、「0」「1」のみで表記された言語は機械語と呼ばれる。1940年代、コンピューターが誕生したばかりの頃、人間は機械語でコンピューターに指示を与えなければならなかった。
 ところが、人間にとって機械語を扱うことは至難の技であった。そこで、人間に分かりやすい表現でプログラムできる高級言語が開発された。高級言語は、自動処理で機械語に変換されて、コンピューターに指示を与える。代表的なものとして、1950年代、科学計算用にFORTRANが、事務処理用にCOBOLが開発された。
 C言語が開発されたのは1972年であるが、他の高級言語にはない大きな特長を持っていた。OSを記述(開発)することができたのである。デニス・リッチーは、ベル研究所の同僚だったケネス・トンプソンとともに開発した代表的なOSであるUNIXを、自らC言語で記述し直すことに成功した。
 OSはそれまで、高級言語機械語の中間に位置するアセンブリ言語で記述されていた。それが高級言語で記述できるようになり、コンピュータシステムは飛躍的に発展する。

 OSの重要性は1980年代以降、明らかになる。コンピューター業界の主役が、ハードウェアメーカーの巨人IBMから、ソフトウェアの新興勢力であるマイクロソフトに移り、ソフトウェアの時代が始まる。ハードウェアが量産効果で価格(利益)を下げていく一方で、マイクロソフトは、コンピューターには必須のOSで市場をおさえ、莫大な利益を上げていった。
 OSに限らず、コンピュータシステムに直結するプログラムは、ほぼC言語で記述される。C言語の開発は、間違いなくコンピューター史上に残る業績であり、実際、IT産業を支えている重要な基幹技術となっている。

 それにしては…というのが、デニス・リッチーの訃報に接したときの正直な感想である。先日のスティーブ・ジョブズの訃報が全世界を駆けめぐったのとは、あまりにも対照的に、静かな扱いだ。

 科学技術の最高の栄誉に1901年に始まった「ノーベル賞」がある。科学の分野は「物理学賞」「化学賞」「生理学・医学賞」である。そこに数学がないことから1936年に「フィールズ賞」が設立された。そして、1966年、計算機科学の最高の栄誉として「チューリング賞」が制定された。
 チューリング賞は、これまで、57名に贈られているが、デニス・リッチーは、その限られた受賞者のうちの一人である。ちなみに、ノーベル賞フィールズ賞には日本の受賞者がいるが、残念ながら、チューリング賞では、いまだに日本人受賞者は出ていない。

 一般の人たちにとっては馴染みの薄いデニス・リッチーだが、計算機や情報の分野に携わっている人たちにとっては特別な存在だろう。特に、ブライアン・カーニハンと書いた「プログラミング言語C」(二人の頭文字をとって、通称『K&R』と呼ばれる)は、C言語の古典であり、多くの人が持っている。しかし、プログラム記述の技巧がすごすぎて最後まで読み切っている人は少ないともいわれている。
 デニス・リッチーの訃報に接して、書棚から『K&R』を取り出し、昔を思い出して開いた人も多いのではないかと思う。

「「人工知能」研究の創始者ジョン・マッカーシーを追悼する 2011年11月01日」の初稿

人工知能の創世記を築いたジョン・マッカーシーを追悼する (2011年10月8日脱稿)

 機械は知能を持てるだろうか?専門家でなくても興味をひかれる話題である。
 人工知能(AI: Artificial Inetligence)という言葉を最初に提唱し、AI研究を先導して、1971年にコンピュータ科学最高の栄誉であるチューリング賞を受賞したジョン・マッカーシーが10月24日、他界した。84歳だった。

 機械が知能を持てるかどうかは、昔から議論されていて、今なお結論の出ていない、人類にとって、大きなテーマの一つである。議論がSFから離れて学術的な研究へと進展したのは、コンピューターが誕生してからである。コンピューターが誕生するための重要な理論は1930年代に提示された。
 第一のものは、「チューリング賞」にその名を残しているアラン・チューリング(1912−1954)が1936年に発表した「チューリング・マシン」である。チューリング・マシンは無限に長いテープ(記憶装置)と一つのヘッド(記号処理を行う装置)で構成される単純なモデルであったが、このシステムで、ありとあらゆる記号操舵が可能であることを示した。それは思考のモデル化であり、衝撃を与えた。神秘の領域であった思考が初めて科学の言葉で語られたのである。チューリング・マシンはコンピューターの理論そのものであり、日常使われている今日のコンピューターは、すべてチューリング・マシンということもできる。
 翌1937年には、クロード・シャノン(1916−2001)が、電気回路でブール代数(2進数のみで記述された数学)が構築できることを示した。それは、デジタル計算機に理論的な根拠を与えるものであった。チューリングは、チューリング・マシンを用いれば人間の思考を代替できることを示していたが、どうやればチューリング・マシンを実現できるのかまでは言及していなかった。シャノンは電気回路でチューリング・マシン、つまりは現代のコンピュータを構成できることを示した。

 第二次世界大戦を挟んで、1950年代にコンピューターは商用化される。それにともなって人工知能の研究も隆盛する。その中心となったのがマッカーシーである。1年間、シャノンのもとで研究を行った後、1956年にダートマス会議を開催して、人工知能研究の出発点を作った。
 このときの構想からLISP言語が生まれ、1958年にコンピューターに実装された。科学計算用のFORTRANの次に開発された2番目に古い高級言語であるLISPは、人工知能の研究ではもっともよく使われているもので、マッカーシーの大きな業績になっている。
 日本の研究者との交流も多くあったそうで、1988年には京都賞(第4回)も受賞している。

 2011年10月は、スティーブ・ジョブズ(5日)、デニス・リッチー(12日)に続く、コンピューター史に残る巨人の逝去であり、特別な月となった。 
 私自身としては、コンピューター史を三度振り返ることとなった。そこで強く感じるのは、大きな業績の多くが、いかに若者の柔軟な思考によって生み出されてきたかである。
 例えば、上述したものを列挙すれば、「チューリング・マシン」(チューリング24歳)、「電気回路でチューリング・マシンを構成できること」(シャノン21歳)、「ダートマス会議」(マッカーシー29歳)であり、「パソコンの開発」(ジョブズ20歳)、「UNIXの開発」(リッチー30歳)である。
 このような傾向は、おそらく、今日でも変わっていないはずである。教育や科学技術政策を考える上で、忘れてはいけない視点であろう。